故人のために尽くす道はいろいろあり得ると思います。差しあたっては葬式を立派に行うということも一つでしょう。しかし同時に、葬式さえ立派にすればそれで事がすむ、というものでもないようにも思えます。というのも、故人のいまわの際における心残りは別の部分にあるからです。
伝えたいことを言えなかった。この後悔をもって永遠の扉に隔てられてしまった人の悲しみに、私たちは歩み寄らなければなりません。そのための架け橋になるのは思い出です。この世で出会い、時を分け合った宿縁。そのふしぎの力の由来するところに一歩一歩思いを傾けて降りていく。そこには今でも季節が巡り人びとの声と温もりが続いています。
感謝と祈り。それだけが昔から変わらぬ人々のすがたでした。一人の幸せをねがう思いは万人の未来を思う心につながり、その雫は大きな広がりをもって日本全土を包み込むでしょう。悲しみにおぼれず、しかも負けもせず、これをしかと見定めて永遠の力に変えてゆく。それが日本人の祈りの心であり、私たちの中に息づく神のまなざしなのです。
誰かに思い出されたとき、人ははじめて存在したことになる。この事実を信じるならば私たちの死は必ずしも終わりを意味しません。理由も知らずに現世に生まれ、そして再びいのちの砂漠に還っていく私たち。二つの世界の交差点でめぐりあった生命は、またどこかで出会うのでしょう。
だからこそ、物語を続けていこうではありませんか。消えていくことの中に美しさもある。その思い出をたどることで、私たちの歩みもまた星や草木のようにひそやかな光を放ち続けるのですから。
二度と会えないということも、また奇跡なのです。